ID:62333
ペインタリネス 2019
PAINTERLINESS 2019 PAINTERLINESS 2019
石川裕敏 圓城寺繁誉 河合美和 岸本吉弘 善住芳枝 真木智子 渡辺信明
【テキスト 尾崎信一郎】
ISHIKAWA HIROTOSHI
ENJYOHJI SHIGETAKA
KAWAI MIWA
KISHIMOTO YOSHIHIRO
ZENJU YOSHIE
MAKI TOMOKO
WATANABE NOBUAKI
TEXT: OSAKI SHINICHIRO
Venue
ギャラリー白 ギャラリー白3 ギャラリー白kuro
Gallery HAKU
Period
2019年9月2日(月)- 9月14日(土)
Exhibition Outline
ペインタリネス 2019 PAINTERLINESS 2019 ペインタリネス 2019 石川裕敏 圓城寺繁誉 河合美和 岸本吉弘 善住芳枝 真木智子 渡辺信明
【テキスト 尾崎信一郎】
PAINTERLINESS 2019 ISHIKAWA HIROTOSHI
ENJYOHJI SHIGETAKA
KAWAI MIWA
KISHIMOTO YOSHIHIRO
ZENJU YOSHIE
MAKI TOMOKO
WATANABE NOBUAKI
TEXT: OSAKI SHINICHIRO
ペインタリネスは「反動」か 尾崎 信一郎
21回目の「ペインタリネス」をお届けする。このグループ展は、時折メンバーを違えつつもほぼ固定した顔ぶれで開催されてきた。今年も昨年の出品者のうち、中島一平を除く7名が参加し、近作ないし新作を出品している。結果として今年の出品者はテクストを寄せる私も含め、ほぼ全員が1960年代生まれという同じ世代に属することとなった。最近80年代美術が再評価されているが、私たちもまた80年代ニューウェーヴの華々しい活躍の直後に自覚的に絵画の制作や批評を始め、それからおおよそ30年の時が経過した訳である。最初の「ペインタリネス」が1995年に開かれたことを想起するならば、私たちはこの展覧会とともに自らの表現を陶治してきた。
それではこの30年とは絵画にとってどのような時代であったのだろうか。おそらく二つの矛盾した答えが可能であろう。一つはそれが絶滅の危機に瀕しているというものだ。実際、この四半世紀、内外の国際展や芸術祭といった現代美術のカッティングエッジを紹介する展示において、私たちが絵画に出会うことはほとんどない。そこには映像とインスタレーション、観客参与型の作品ばかりが出品されている。この一方、絵画はなおも命脈を保ち、十分な検証の機会を与えられてきた。例えば私たちにとって身近な国立国際美術館は千里万博公園時代の「絵画 1977-1987」に始まり、絵画やドローイングといった言葉をタイトルに冠した展覧会を思い浮かぶだけでも5回にわたって開催し、その最新版、先日まで開催されていた「抽象世界」も基本的に絵画に焦点を当てた展示といってよかろう。あるいは1984年以来、東京国立近代美術館が連続して企画している「現代美術への視点」シリーズも伝統的な平面と立体にジャンルをしぼった展覧会である。危機と充実、私たちはこの対比をいかにとらえるべきであろうか。
「絵画の死」と「絵画の豊かさ」、幾度となく繰り返され、聞き飽きた印象さえあるこれらのキャッチフレーズに代わって、私たちは別の尺度に目を向けるべきではないか。端的にそれは絵画のクオリティという基準だ。しかしこのような問いかけは今日すこぶる評判が悪い。かつて藤枝晃雄は次のように断じた。「地球がその動きを停止してもオーブリー・ピアズリーかポール・セザンヌよりも、アール・ヌーヴォーがキュビスムよりも高質にして重要だ、ということはありえないだろう。優れた作品は多義的で消耗しない」この攻撃的な発言が藤枝の私淑する批評家クレメント・グリーンバーグの衣鉢を継いでいることは明白だ。しかしグリーンバーグが擁護したモダニズム/フォーマリズム美術はかつての強い影響力への反発であろうか、70年代以降、視覚偏重やアメリカ・ファースト、男性優越主義といった多様で等しく否定的なコノテーションとともに徹底的に弾劾されてきた。グリーンバーグや藤枝のように作品のクオリティを問うことは批評家の傲慢とみなされ、無際限の相対主義が一世を風靡した。それがポスト・モダンという時代であったのだ。
しかし私たちは質の判断を停止してよいのだろうか。美術批評を生業とする者として断じるが、質の高い絵画が存在すれば、質の低い絵画もまた存在する。そして私は自分がそれを見分けることができると信じる。私たちが「ペインタリネス」に回帰する理由もここにある。抽象絵画は20世紀初頭に成立した比較的新しい表現であるが、今日振り返るに、1950年前後にアメリカで制作されたー連のペインタリーな絵画において一つの頂点をきわめたと考えるからだ。いうまでもないが、これらの作品はかかる優越を抽象表現それ自体に負っている訳ではない。具象的な絵画においても私たちは同様に質の高い絵画の系譜を指摘できる。マティスとロスコは同じようにハイ・クオリティの絵画だ。その判断にあたって再現性の有無は関係がない。
抽象表現主義と呼ばれる1950年前後のアメリカ絵画が抽象絵画の一つの頂点をかたちづくったことに対しては歴史的な説明が可能かもしれない。それは後続した絵画との関係において明らかとなる。つまりこれ以後、絵画は現実に同化した。ミニマル・アートが絵画において成立しなかった理由は明らかであろう。そこで絵画は現実の物体へと審級を替えたからだ。グリーンバーグらと同様に私も1950年代後半に絵画は一つの限界を画定したと考えるが、その指標は平面性や現在性ではない。それは絵画から物体への転換であり、ステラのブラック・ペインティングや桑山忠明のー連の絵画は両者の境界に屹立している。現実として実現される物体は絵画であることに拘束されないため、強度において比類がない。デュシャンに始まるレディメイドが20世紀美術に対して占める重要性はこの問題と深く関わっている。ひるがえって考えるに、50年代のペインタリーな絵画は絵画が物体になるぎりぎりの地点に踏みとどまったのではなかろうか。ポロックやニューマン、あるいはスティル、その前に立つ時、私たちが感受する圧倒的な異物感は、それが通常の絵画ではありえない即物性を帯びていることに由来している。一方でこれらの作品は絵画によってしか実現不可能な触知できない空間性、物質がイメージに転じる契機をはらんでいる。昨年の「ペインタリネス」において私は「風景」というキーワードを提示した。風景とは人の眼差しの介入によって、それが絵画であることを担保する。アクションでも崇高でも視覚性でもよい、思うに、ペインタリーな抽象絵画においては絵画としての自律性を保持しつつ、時に身体的、時に主題的な可能性を探求することによって、絵画が物体へと転じる危機がかろうじて回避されていた。私はここに抽象絵画の一つの究極、一つの絶頂を認める。もはや進化論的な絵画史から解放された私たちが再びそこに立ち戻ってならない理由はない。四半世紀に及ぶペインタリネスの実践とは作家それぞれによるこのような回帰の試みではなかったか。「絵画の死」と安易な「絵画の豊かさ」を唱える者たちにとって私たちの実践は反動的とみなされよう。 しかし私は藤枝に倣って次のように結語したい。「地球がその動きを停止しても村上隆や奈良美智がペインタリーな抽象絵画よりも高質にして重要だ、ということはありえないだろう。優れた作品は多義的で消耗しない」
(おさき・しんいちろう 鳥取県立博物館副館長)
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- 日曜日 休廊
- Opening Hours
- 11:00 ~ 19:00
- (土曜日 17:00 まで)
Events
初日(2日)18:00よりオープニングパーティを行ないます。どうぞご参加下さい。
Access Information
ギャラリー白 ギャラリー白3 ギャラリー白kuro ギャラリーハク
Gallery HAKU
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大阪市北区西天満4-3-3 星光ビル2F - Website
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Created Date:2019.8.28