ID:45157
今村 輝久 展
Venue
ギャラリー白
Gallery HAKU
Period
2015年1月12日(月)―1月24日(土)
Exhibition Outline
今村 輝久 展 イマムラ テルヒサ テン
戦後の関西現代美術の基盤をつくってくれた彫刻家
福岡道雄
大阪市立美術研究所に通い始めた頃、講師は今村輝久。フェスティバルホールの壁面彫刻のアルバイトがあるから、君来ないかと誘われた。行動美術の会員ばかり八人、若いのが三人ほど。信楽の寒い二月。十代は僕だけで、そこで建畠覚造や向井良吉に会えた。
今村輝久は彼らと東京美校(現芸大)の同期生である。池袋西武デパートで開催された、集団現代彫刻展に推薦してもらえて、日本の現代彫刻の主だった人達、堀内正和、山口勝弘、若林奮、荒川修作に会えたことは嬉しかった。何故か、大阪の平川正道と村岡三郎にも、この展覧会の陳列で東京で初めて会ったのだ。
緑色の唐草模様の一反風呂敷を二枚で包み、セメント製の40センチ角の彫刻はまだ水分をたっぷり含んでいて50キロ強。多分徹夜で石膏を割ったのだろう、あちこちに石膏カスがついている。集団現代彫刻展に出品する今村さんの作品である。難波の港町駅から夜行列車の連結部に置いて、僕は時々様子を見にいく。夜になると、足元にも、通路にも、網棚にも皆、丸くなって寝ている。東京駅に着くと長いホームを赤帽が改札口まで運んでくれた。それからどうしたか記憶がない。その夜、上野の森にあった小さなラブホテルに泊まる。四畳半の畳の部屋に小さな姫鏡台と艶かしい布団がひいてあった。もう一つ布団をと、今村さんが言う。百円頂きますと従業員の女性。男同士ラブホテルに行ったのはこれが最初で最後。まだ、そういう時代であった。当時、何故か、デパートと新聞社が現代美術にちからを貸してくれていた。
天王寺公園の中にある大阪市立美術研究所は半地下にあり、僕はそこで四年程好きな仕事をしていた。今村さんは週に二回講師として観にこられた。別にたいしたことは言われなかったが、ぴしっ、とか、ぴたっ、とか言う言葉をよくいわれたのを覚えている。今村さんの作品が正にぴしっ、しゃあ、すきっ、としている。そういう表現が好きな作家だった。そういう意味では僕と全く相反していたのに、彫刻の話になると熱くなられた。
戦後しばらくは皆大変な時代で、特に、戦前の教育を受けた先輩たちは、何とか早く、ジャコメッティやヘンリー・ムーア、ザッキン、そしてブランクーシに追いつこうと懸命である。
大阪上六の駅から歩いてすぐの所に漆喰が落ちた土蔵だけが幾つか残っていた。空襲で焼け残った建物だ。その一つに今村さんの住居とアトリエがある。今もある。先代は江戸時代から続く鋳物屋で釣鐘などをつくっていたとよく聞いた。だから、ブロンズに興味があるのかな? と思っていたが、あの粘っこい重々しさ気に入らなかったのか、アルミニウム作品が多い。宝塚駅前にある床置きのモニュメントは一番今村輝久らしい気張らない彫刻である。
あまり誰も知らないのが、天王寺や上六界隈で二人でよく玉を突いていたことである。ビリヤードだ。僕はせっかちな玉を突くが、今村さんはよく考える。突くのかと思ったら、やめて、また考える。
歳をとられてからも体型は少しも変わらず、静かで落ち着いた方だった。若い人達の面倒見、行動美術、創造美術、大阪彫刻家会議などおおくの世話をしてこられた。十年前、老衰で他界されたが、老衰とは一番格好いい。
今村輝久は僕の先生でもある。しかし、先生とは一度も言ったことがなかった。何故だろう、と今でも思う。
随分前に、高野山で今村さんの喜寿を祝う会があった。こんな遠くに三百人の大勢の方が来られていた。まさにお人柄である。最後になったが、今、活躍中の彫刻家、今村源の父親でもある。
(ふくおかみちお/彫刻家)
- Closing Days
- 日曜日
- Opening Hours
- 11:00a.m. ~ 7:00p.m.
- 土曜日/ 5:00p.m.まで
Events
●初日 1月12日(月) 6:00p.m.よりオープニングパーティを開催致します。
Access Information
ギャラリー白 ギャラリーハク
Gallery HAKU
- Address
-
〒530-0047
大阪市北区西天満4-3-3 星光ビル2F - Website
- http://galleryhaku.com/
- General Inquiries
- 06-6363-0493 art@galleryhaku.com
Created Date:2015.1.13