◎ミュシャとアール・ヌーヴォー
ミュシャが自画像を描いた1888年、彼は無名の画家でした。正式な名前はアルフォンス・マリア・ムハ。Mucha(ムハ)はフランス語読みでは「ミュシャ」と発音します。当時、ミュシャはモラヴィアのクーエン・ベラシ伯爵の援助を受けて、パリのアカデミー・ジュリアンで絵画を学ぶ学生にすぎませんでした。翌年には、この援助も途絶えたため、画家は経済的に困窮し、グラフィック・アートや、アルマン・コラン出版社の雑誌や本の挿絵を描いて生計を立てるようになりました。
突破口が開けたのは、1894年のクリスマスのことです。印刷業者ルメルシエが、女優サラ・ベルナール主演によるルネサンス座の舞台「ジスモンダ」のポスター制作を急遽ミュシャに依頼してきたのです。縦長の画面の中に、茶色と黄金色がアクセントの豊かで柔らかな色調の衣をまとった、ほぼ等身大の威厳ある女性像を描いた装飾的なポスターは、ミュシャを一躍有名な画家へと押し上げます。これによりサラ・ベルナールの信頼を勝ち得たミュシャは、以後、《ロレンザッチオ》(1896年)や《メディア》(1898年)、《ハムレット》(1899年)、《トスカ》(1899年)などの舞台の宣伝ポスターや商業ポスターを手がけました。彼の描き出す妖しい魅力を持つ「魔性の女(ファム・ファタール)」は、新しい時代の神話の象徴となったのです。
神々しささえ感じさせる女性の美の極致は、頭上に花飾りや星の光輪のある美しい女性の姿を描いた《4つの花》(1897年)や《四芸術》(1898年)など、19世紀後半に描かれた連作の中で開花しました。また、サラ・ベルナールのために、この時代の至宝とされた《蛇のブレスレットと指輪》(1899年)もデザインしています。ミュシャは宝飾デザインでもその才能を発揮し、彼がデザインした作品は、1900年パリ万国博覧会において、宝飾商ジョルジュ・フーケにより展示されました。
◎世紀末の祝祭
ヨーロッパにおける19世紀末から20世紀への転換期は、技術が飛躍的に発展し、多くの画期的な発明により社会が大きく変化した時代でした。技術の進歩は明るい未来を約束し、人類は完全無欠であるという幻影を人々は抱いていたのです。とりわけ1900年にパリで開催された万国博覧会は、この時代の空気を象徴するものであったと言えます。
ミュシャの名声が絶頂を極めていたこの時期、1900年のパリ万国博覧会において、彼は人間のもつ理性、創造力、知性を讃えた「人類館」というモニュメントの構想を、3枚の素描により提案します。しかしそれは実現されず、かわりに請け負ったのは、当時オーストリアに新たに併合されたボスニア・ヘルツェゴヴィナのパヴィリオンの装飾でした。ホール内部は3段の帯状に塗り分けられ、下の帯には花の装飾、中央の帯にはボスニア・ヘルツェゴヴィナの歴史、上の帯にはボスニアの神話に登場する人物像が描かれました。さらには自身も出品したオーストリア美術の展覧会およびパリ在住のチェコ出身画家による展覧会も企画しています。
この時代、中世の街並みが色濃く残るプラハも空前の好景気を経験し、近代的な都市へと変貌を遂げます。市の中心部には国立美術館が開館し、中央駅や中央郵便局も建設されました。この頃に建てられたアール・ヌーヴォー建築の美しさは、今日でも変わらず称賛されています。当時、チェコはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にありましたが、プラハの政治指導者たちは、自らを暫定政府と位置付け、1910年にはチェコの社会や文化の中心として市民会館を建設しました。そして「市長の間」の装飾は、ミュシャに一任されたのです。円形の天井には、天国の情景や天国を遠くに望みながら集まる人々の姿や、それに影を落とすように羽根を広げ飛翔する鷲の姿が描かれました。天井は8つの穹偶によって支えられ、その上部には市民の徳を擬人的に表現したチェコの歴史上の人物像が描かれています。また、ステンドグラスの窓やソファー上のラジエーターを覆う2枚の装飾パネル、パリにあるジョルジュ・フーケのブティックを彷彿とさせる孔雀の刺繍が施された織物のカーテンもデザインしました。そして1918年、市民会館は、チェコスロヴァキア共和国が独立を宣言した舞台となり、国家の象徴としての役割を果たすこととなったのです。
◎独立のための闘い
19世紀末から20世紀への転換期は、小国が独立を求める闘いの時代であったとも言えます。チェコでは、オーストリア=ハンガリー帝国とゲルマン化政策に対する抵抗の動きが高揚していました。
万国博覧会の期間中、ロシア皇帝アレクサンドル3世の来訪を受けたことで、パリは、汎スラヴ主義の波を経験します。ミュシャは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を手がける際に取材したバルカン半島への旅で目の当たりにした外国の支配を受けている人々の屈辱と苦しみを、劇的なかたちで表現しました。
その後アメリカに渡り、同地のスラヴ人コミュニティーのメンバーの知遇を得たミュシャは、約50万人のメンバーを抱えるスラヴ協会を設立しました。そして、《スラヴ叙事詩》制作のための資金提供を資本家チャールズ・R・クレインから取り付けます。
ボヘミアに戻った後は、女性の描写にも変化が見られます。丸顔でふっくらした体型のスラヴ人である妻の容貌がベースとなりました。バレエ「ヒヤシンス姫」のポスター(1911年)は、星空に囲まれたプリンセスをロマンティックに様式化しているにも関わらず、その姿からはエネルギーに満ちた現代女性という印象が伝わってきます。また、「第6回全国ソコル祭」(1911年)、「第8回全国ソコル祭」(1925年)用ポスターなども手がけています。民族の伝統や民族衣装に触発され、意匠化したこれらのポスターは、明るい色彩で写実的に描写されています。画家の晩年の作品は、新生国家チェコスロヴァキアの依頼を受けて制作されたものが多く、紙幣や切手のほかにも、白獅子の国章、警官の制服、聖ヴィート大聖堂のステンドグラス(1930年)などもデザインしました。1928年にプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿(見本市宮殿)に連作《スラヴ叙事詩》全作品が展示された際には、チェコスロヴァキア独立10周年記念ポスターも制作しています。これらの作品は、チェコ国民の文化的民族自決のための長年にわたる闘いの、まさに有終の美を飾るものでした。
◎スラヴ叙事詩
1911年、ムハ(ミュシャ)はプラハ近郊のズビロフ城にアトリエを借り、晩年の約16年間を捧げた壮大なプロジェクト《スラヴ叙事詩》に取り組みます。故郷を愛し、人道主義者でもあった彼は、自由と独立を求める闘いを続ける中で、スラヴ諸国の国民をひとつにするため、チェコとスラヴ民族の歴史から主題を得た壮大な絵画の連作を創作したのです。
当初、《スラヴ叙事詩》は、本作を美術館に常設展示することを条件にプラハ市に寄贈することになっていました。
1928年には、チェコスロヴァキア独立10周年を祝して、全20点のうち19点がプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿で公開されました。未来の世代のためにというミュシャの願いも空しく、若い世代からは、保守的な伝統主義の産物だとのレッテルを貼られてしまいます。さらに、経済危機や複雑な政治状況が追い打ちをかけ、予定されていた《スラヴ叙事詩》展示のための美術館も建設されることはありませんでした。画家の没後、第二次世界大戦が終結すると、この連作は、画家の生まれ故郷近くのモラフスキー・クルムロフ城に寄託されます。ようやく作品が現在展示されているプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿に戻されたのは、2012年のことでした。